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漠然とした心配からの解脱。
世の中

答えのある世の中。答えのない人生。

一本道

患者の治療で先輩に質問するときに、「俺はこう思う」とか「私はこういうやり方をする」と教えてもらうことがある。

しかし、先輩によって答えることがまちまちだ。

一体私はどうすればいいのでしょうか。

この問題の「答え」は一体何なのでしょうか。

先輩の答えは人によって全然違います。

本当の答えとは、何なのでしょうか?

答えがある世の中

学生のテスト勉強は決められた問題に対して、答えを暗記する作業です。

その作業を、義務教育の期間叩き込まれます。

義務教育の期間が終了したあとも、高校や大学で答えを暗記することになれきってしまいます。

わからないことがあれば、グーグルの検索窓にわからない単語を1つ2つ入力すれば、すぐに答えが出てきます。

子供の頃から、答えのある世の中に慣れきっているというのが、現代の私達です。

どんな問題にも答えがあると信じている人が多いです。

逆に言うと、「答えが無い」という考え方に違和感を感じている人が増えています。

答えの無い人生

しかし、人の人生に答えはあるのでしょうか。

人の人生とはこうあるべき、とかこのような問題に直面した場合はこのように向き合うべきです!

そのような観念に矯正される人生というものの末路は、なぜこのようなことになってしまったのかということになるはずです。

なぜなら、正解を自分の頭で生み出すという習慣がなく、外から探すということになります。

自分の人生であるのに、周りや世間の常識に左右されてしまった結果、これが本当に自分の人生なのかとわからなくなります。

人生に答えがないというエピソードで、芸能人のつんくと忌野清志郎の話があります。

ふたりとも歌手であり。

ふたりとも喉頭癌という病気になります。

喉頭癌という病気の性質から、生き残るためには手術により声帯を摘出する必要があります。

声帯の摘出は、声を失うことに繋がります。

つまり、歌手としての死です。

つんくは声帯を摘出し、家族とその後の人生を歩んでいく道を選択します。

忌野清志郎は声を失うことは死ぬことだと、死ぬ直前まで歌い続け、ロックシンガー忌野清志郎として死んでいきます。

同じ職種で、同じ病気に見舞われたとき、そこにあるのは選択でした。

人生には正解は無いとはこのような意味合いです。

学術の場合

それでは、勉強し正解を身につけることが意味のないことなのでしょうか?

必ずしもそうとは限りません。

学術にはその段階での、暫定の正解というものが存在します。

理学療法学という学術であれば、大腿骨の骨折の患者にはどのような対応をすることがもとも望ましいのかということがわかります。

学術上であればそれが正解です。

この正解というものは、過去の沢山の人達の経験であり、選択の結果です。

学術上の正解というものは、過去の行動の結果でありますので、同じ失敗を繰り返すのはもったいないことです。

勉強して暫定の正解を身につけるということも、重要なことと言えるでしょう。

プロフェッショナルの姿勢

学術の正解というものは、研究の進歩により変わっていく場合もあります。

現在の学術上の根拠というものは、研究のデザインにより信頼性というもので評価されます。

一番信頼性の高い研究デザインは、ランダム化比較試験(RCT)というもので、個人で行うことは難しいものです。

個人で学術上の正解を前進させるということは難しいです。

しかし、プロフェッショナルは正解で立ち止まる姿勢では、いけないと思っています。

なぜなら、個別性という問題が生じてくるからです。

RCTの場合でも、他の研究デザインの場合でも、例外というものが存在します。

大腿骨骨折の場合でも、エビデンスの高い治療を実施できないケースというものがあるはずです。

その場合は、別の研究を探すこともあるとは思いますが、その個人に応じた対応というものが必要となるはずです。

答えが存在したとして、それだけを繰り返していては技術の進歩は生じません

100点の方法がみつかったとして、それを繰り返すだけでは100点しか取ることができません。

プロであるのであれば、110点や120点を探していく必要があるでしょう。

そのためには、与えられた答えで、満足していてはできないのです。

すこしでも成長するためには、細かなものの変化に気がつき、そこに工夫を繰り返していくことです。

ほとんどの工夫は点数を下げることになるかもしれません。

しかし、時には102点や103点という結果が生まれることもありはずです

点数を伸ばしていくためには、現状の正解から外れ、細かな創意工夫を繰り返していくことでしか生まれないのです。

宗教と哲学

答えのあるなしを考えるときの話で、宗教と哲学を考えてみるとわかりやすいです。

この両者では、物事の真理に対しての向き合い方が大きく異なります。

物事の真理、つまり正しさとはないかと言うような命題に対して、宗教は一定の教えがあります。

これが正しい、これが正解だ。

一方、哲学の場合は、答えを探し続けます。

このような答えもあるし、もしかするともっと良い答えがあるかもしれないと。

例えるならば、先の見えない道を歩いているとき、その道を歩き続けるのが哲学で、

誰かがゴールを決めてしまい、歩くことをやめるのが宗教であると言えると思います。

歩き続けるのが正しいとか、歩くのをやめてはいけないとか、そのような話をするつもりはありません。

人間という弱い生き物の場合、ある程度外側から答えを決めてもらったほうが幸せである場合も多いのです。

人に決めてもらえれば、責任を外に求めることができます。

哲学的な立場の場合、どんなに苦しくても、自分で決め、行動しなくてはなりません。

行動した結果、自分の思うような結果が望めなかったときに、全て自己責任で生きなくてはなりません。

宗教的な考え方の場合、教えに従って生きていれば、神の思し召しということばで全て解決できてしまいます。

普通に生活する上で、どちらが幸せかというと、多くの人にとっては宗教的な考えの方が安心して生きていけると思います。

正しい主張は思考停止に陥る罠

答えのない道を歩む覚悟

ニーチェは「神は死んだ」と言いました。

彼が言うように、神というような絶対的な存在が、現代の世の中には存在しません。

絶対的な正解が、どうやらなくなってしまったことにより、答えが無い世の中を生きていかなくてはなりません

哲学者と同じように、どこに向かって進むのか、どこまで歩くのかわからないにも関わらず、それでも前へ進まなくてはならないというようなことを意味します。

正解のある世の中を歩くよりもよっぽど、大変なことであり、不幸なことであると思います。

すべての行動が、いいことか悪いことなのかわからず、何をしていいのかもわからないような人生です。

しかし、その人生を私達は歩いていかなくてはならないのです。

自分自身の答えを生み出し、その結果に責任を持つのです。

教科書に書いていない、だとか、教えてもらっていないというような、学生のような言い訳は通用しないのです。

覚悟を決めて、自分の行動に対して責任を持つのです。

答えのない人生というものを肯定して生きていきましょう。

まとめ

答えを人に求めたときに、思考停止に陥ります。

それはある意味では、楽で幸せな状態だと思います。

もし、そのような生き方を求めるのならば、正解をはっきりと決めている宗教をおすすめします。

自分の頭で物事を考えたいのであれば、正解を自分自身で決めなくてはなりません。

それは、選択の結果を自分自身で受け入れるという、つらく大変な行動が求められます

自分の人生を、自分で選び、責任を受け入れることで、答えのない人生を歩んでいってほしいと考えています。

宗教を馬鹿にするな!解脱しろ!!

漠然とした不安の招待は『金』だった